今年のノーベル文学賞受賞作家、オルガ・トカルチュクについて 2019.10.12

今年受賞が発表されたのはポーランドの作家、オルガ・トカルチュク。女性の受章者はトカチュルクが15人目。かなり奇抜な髪形をしているイケてる女性作家だ。東欧の作家が受賞するたびにやっぱりこの地域は文才に長けている人が多いのかと思ってしまう。

ノーベル委員会のアンデルス・オルソン委員長は選考理由について「森羅万象への情熱を武器に、限界を乗り越えていこうとする生き様を物語る想像力に対して」贈ると説明している。

彼女の翻訳は白水社から『昼の家、夜の家』、『逃亡派』が出ている。『昼の家、夜の家』はチェコとの国境の小さな町を舞台にした長編、『逃亡派』は旅と移動というモチーフで116の断章をつないだ作品。

 朝日新聞にも記事が出ていた

トカルチュクさんは1962年、ポーランド西部の都市スレフフ生まれ。ワルシャワ大学を卒業後、セラピストを経て、93年に「本の人々の旅」で作家デビューした。

 文学を専門とする出版社「ルタ」を設立したが、2003年以降は執筆に専念してきた。

 旅と移動というモチーフで116の断章をつないだ「逃亡派」で08年、ポーランドで最も権威のある文学賞「ニケ賞」を受賞。18年、同書で世界的に権威のある英国のブッカー国際賞を受けた。

 邦訳はほかに、チェコとの国境の小さな町を舞台にした長編「昼の家、夜の家」がある。

 ポーランドを東欧ではなく「中欧」と位置づけ、複雑な歴史を背景に、西と東の影響を重ねた「中欧文学」をうたう。13年に来日、東京大学などで講演と朗読を行った。

 <小椋彩・東洋大助教(ロシア・ポーランド文学)の話> 日常と神秘が隣り合う作品は「ポーランドのマジックリアリズム」とも称される。ユダヤ人迫害をなかったとする歴史修正主義者らを真っ向から批判し、身に危険さえ感じていた。フェミニストで、環境問題や移民問題などへの積極的発言も考慮されての受賞だろう。(2019.10.11朝日新聞

 

さて、Facebook沼野充義さんが彼女の受賞を祝う投稿をしていた。とても勉強になったので覚書としてここに引用しておこう。

以下、「昼の家、夜の家」の書評

いまもっとも注目されているポーランドの現代作家の一人、オルガ・トカルチュクの代表作の翻訳である。舞台となるのはチェコとの国境からすぐそばの、ポーランドの周縁部に位置する山村で、近くにはノヴァ・ルダという地方都市がある。ここに住む語り手が、近隣の人たちとの付き合いと彼らの来歴、地元に伝わる伝説、豊かな自然(特にキノコの魅力)などについて、百十一の断片を連ねて書き綴った、という設定の作品である。そういう形式なので、はっきりした筋書きがあるわけではないが、様々な断片の中には、夢を記録した散文詩もあれば、奇怪な聖人伝もあり、またなんと様々なキノコ料理のレシピまで紹介されている。しかし、エノキタケ、ホコリタケなどはいいとして、シロタマゴテングタケとかウラベニイロガワリといた毒キノコもいかにも美味しそうに出てくるので、ご用心!
物語の行く先をせっかちに追わないで、ゆったりした気分でそういった断章の一つ一つを味わっていると、とても不思議な気分になってくる。その背後には第二次世界大戦から現代への歴史の流れが見え隠れしていて、そこには苛酷な歴史的現実も秘められているはずなのだが、それもまた決して前面に出てくるわけではない。たとえば、登場人物がキノコ料理につっと使っている食用油は、オシフェンチムナチス強制収容所のあったアウシュヴィッツポーランド名)で買いだめしたものだった、といった程度なのだが……。
 登場人物たちの名前からして、すべて現実的なようで、どことなく幻想的。首を括って死ぬこともうまくできなかった酔っ払いのマレク・マレクは、死んでから幽霊になって出てくる。戦争中、ロシアで凍った人肉を食べて生き延びるという極限体験を味あった男の名前はエルゴ・スム。ある若い女性の夢に現れ、彼女の左耳に愛の言葉を囁きかけ、彼女の人生を狂わせてしまう男の名前はアモス。そして語り手の昔のドイツ人の乳母はゲルトルーダ・ニーチェ、といった具合だ。
 作品全体に渡って何度も少しずつ出てきて展開するのは、聖女クマーニスの伝説と彼女の生涯を追って聖人伝を書いた修道士パスハリスの物語である。クマーニスは美しい女性だったが、彼女を支配しようとする父の暴虐から身を守るために、その顔は突然、ヒゲの生えたキリストの顔に奇跡の変容をとげる。一方、彼女の事跡を追うパスハリスは自分が間違った体に生まれたという感覚に苦しみ、女になることに憧れる美少年だった。つまり、ここでは男と女の境界も曖昧になり、人はどちらか片方の領域に定住することができない。
 この越境の感覚、いや、より正確に言えば境界のあたりをさまよう感覚は、作品全体を満たしているものと言えるだろう。ノヴァ・ルダは「存在の境界で、みじんも動かずに、ただあり続ける町」だし、ペーター・ディーターというドイツ人は登山中に心臓発作を起こして、チェコポーランドのまさに国境を両足でまたいだまま死んでしまい、両国の警備隊は死体を隣国に押しつけあう。小説のタイトルも二重の生を暗示している。「人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間の中にしっかり固定された家。もうひとつは果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会に永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいる」。
 そしてキノコ。キノコがいたるところに出てくるだけでなく、そもそもこの小説自体がキノコのようだと思った。ひっそりと森に生えるキノコは大きな木が倒れ、腐った後、それを分解し、土に返す。この物語もそれに似て、全体主義社会主義大きな物語の崩壊後、それらの過去の遺産を夢のかけらのようなものに分解し、しかも美味しい料理にまでしてくれる――それは少々毒の入った、危険な料理でもあるけれども。
 欧米の現代文学とは明らかに一線を画す、独自の世界感覚と文体意識に裏打ちされた傑作である。これに限らず、こういった東欧文学の知られざる作品が、最近、若手の専門家による翻訳で、キノコが頭をもたげるように、次々と出始めている。どうか皆さん、心してご賞味あれ!(沼野充義さんによる『昼の家、夜の家』毎日新聞書評より)

 どうしてこんなにも読ませる、そして読みたくなる書評が書けるのだろう!