クロアチア料理が食べたい!作ってみたい! 2019.10.12
クロアチアは気候、風土そして歴史が異なる地域を多く抱えている。よって食文化も様々で地域固有のものを食べれるというわけだ。一昨年訪れたアドリア海沿岸のスプリトでは魚介類を使った料理が有名だった。確かイカ墨のリゾットだったっけな。まあ自分が食べたのはニョッキなんですけどね。再訪を誓ったあの地で今度こそは魚介類を食べるぞ!
はてと、そろそろ本題。
今回はクロアチア料理をメモしていこうと思う。
まずは、クロアチアの代表料理サルマ(アドリア海沿岸一帯ではアランバシという)
煮込み料理で日本でいうロールキャベツに近い。
サルマもアランバシも言葉の起源はどちらもトルコ語から来ている。前者は「包み」という意味で、後者は「盗賊の頭領」のような意味らしい。
牧畜が古くから盛んだったバルカン半島は、チーズも有名。リカ地方のシュクリパヴァツは種類が豊富で、地域ごとに特産品があるのだとか。
焼き菓子も素朴で味わい深いのだとか。ザゴリェ地方の名物シュクトルリは、グラタンとパイをまとめて食べているような味らしい。ああ食べてみたい。
グレブリツァはチーズだけを入れた塩味の焼き菓子。もともと鉱山で働く鉱夫のために作られた。
フラポチュシャはアドリア海北部のブラチュ島の伝統菓子。
今年のノーベル文学賞受賞作家、オルガ・トカルチュクについて 2019.10.12
今年受賞が発表されたのはポーランドの作家、オルガ・トカルチュク。女性の受章者はトカチュルクが15人目。かなり奇抜な髪形をしているイケてる女性作家だ。東欧の作家が受賞するたびにやっぱりこの地域は文才に長けている人が多いのかと思ってしまう。
ノーベル委員会のアンデルス・オルソン委員長は選考理由について「森羅万象への情熱を武器に、限界を乗り越えていこうとする生き様を物語る想像力に対して」贈ると説明している。
彼女の翻訳は白水社から『昼の家、夜の家』、『逃亡派』が出ている。『昼の家、夜の家』はチェコとの国境の小さな町を舞台にした長編、『逃亡派』は旅と移動というモチーフで116の断章をつないだ作品。
朝日新聞にも記事が出ていた
トカルチュクさんは1962年、ポーランド西部の都市スレフフ生まれ。ワルシャワ大学を卒業後、セラピストを経て、93年に「本の人々の旅」で作家デビューした。
文学を専門とする出版社「ルタ」を設立したが、2003年以降は執筆に専念してきた。
旅と移動というモチーフで116の断章をつないだ「逃亡派」で08年、ポーランドで最も権威のある文学賞「ニケ賞」を受賞。18年、同書で世界的に権威のある英国のブッカー国際賞を受けた。
邦訳はほかに、チェコとの国境の小さな町を舞台にした長編「昼の家、夜の家」がある。
ポーランドを東欧ではなく「中欧」と位置づけ、複雑な歴史を背景に、西と東の影響を重ねた「中欧文学」をうたう。13年に来日、東京大学などで講演と朗読を行った。
<小椋彩・東洋大学助教(ロシア・ポーランド文学)の話> 日常と神秘が隣り合う作品は「ポーランドのマジックリアリズム」とも称される。ユダヤ人迫害をなかったとする歴史修正主義者らを真っ向から批判し、身に危険さえ感じていた。フェミニストで、環境問題や移民問題などへの積極的発言も考慮されての受賞だろう。(2019.10.11朝日新聞)
さて、Facebookで沼野充義さんが彼女の受賞を祝う投稿をしていた。とても勉強になったので覚書としてここに引用しておこう。
以下、「昼の家、夜の家」の書評
いまもっとも注目されているポーランドの現代作家の一人、オルガ・トカルチュクの代表作の翻訳である。舞台となるのはチェコとの国境からすぐそばの、ポーランドの周縁部に位置する山村で、近くにはノヴァ・ルダという地方都市がある。ここに住む語り手が、近隣の人たちとの付き合いと彼らの来歴、地元に伝わる伝説、豊かな自然(特にキノコの魅力)などについて、百十一の断片を連ねて書き綴った、という設定の作品である。そういう形式なので、はっきりした筋書きがあるわけではないが、様々な断片の中には、夢を記録した散文詩もあれば、奇怪な聖人伝もあり、またなんと様々なキノコ料理のレシピまで紹介されている。しかし、エノキタケ、ホコリタケなどはいいとして、シロタマゴテングタケとかウラベニイロガワリといた毒キノコもいかにも美味しそうに出てくるので、ご用心!
物語の行く先をせっかちに追わないで、ゆったりした気分でそういった断章の一つ一つを味わっていると、とても不思議な気分になってくる。その背後には第二次世界大戦から現代への歴史の流れが見え隠れしていて、そこには苛酷な歴史的現実も秘められているはずなのだが、それもまた決して前面に出てくるわけではない。たとえば、登場人物がキノコ料理につっと使っている食用油は、オシフェンチム(ナチスの強制収容所のあったアウシュヴィッツのポーランド名)で買いだめしたものだった、といった程度なのだが……。
登場人物たちの名前からして、すべて現実的なようで、どことなく幻想的。首を括って死ぬこともうまくできなかった酔っ払いのマレク・マレクは、死んでから幽霊になって出てくる。戦争中、ロシアで凍った人肉を食べて生き延びるという極限体験を味あった男の名前はエルゴ・スム。ある若い女性の夢に現れ、彼女の左耳に愛の言葉を囁きかけ、彼女の人生を狂わせてしまう男の名前はアモス。そして語り手の昔のドイツ人の乳母はゲルトルーダ・ニーチェ、といった具合だ。
作品全体に渡って何度も少しずつ出てきて展開するのは、聖女クマーニスの伝説と彼女の生涯を追って聖人伝を書いた修道士パスハリスの物語である。クマーニスは美しい女性だったが、彼女を支配しようとする父の暴虐から身を守るために、その顔は突然、ヒゲの生えたキリストの顔に奇跡の変容をとげる。一方、彼女の事跡を追うパスハリスは自分が間違った体に生まれたという感覚に苦しみ、女になることに憧れる美少年だった。つまり、ここでは男と女の境界も曖昧になり、人はどちらか片方の領域に定住することができない。
この越境の感覚、いや、より正確に言えば境界のあたりをさまよう感覚は、作品全体を満たしているものと言えるだろう。ノヴァ・ルダは「存在の境界で、みじんも動かずに、ただあり続ける町」だし、ペーター・ディーターというドイツ人は登山中に心臓発作を起こして、チェコとポーランドのまさに国境を両足でまたいだまま死んでしまい、両国の警備隊は死体を隣国に押しつけあう。小説のタイトルも二重の生を暗示している。「人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間の中にしっかり固定された家。もうひとつは果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会に永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいる」。
そしてキノコ。キノコがいたるところに出てくるだけでなく、そもそもこの小説自体がキノコのようだと思った。ひっそりと森に生えるキノコは大きな木が倒れ、腐った後、それを分解し、土に返す。この物語もそれに似て、全体主義や社会主義の大きな物語の崩壊後、それらの過去の遺産を夢のかけらのようなものに分解し、しかも美味しい料理にまでしてくれる――それは少々毒の入った、危険な料理でもあるけれども。
欧米の現代文学とは明らかに一線を画す、独自の世界感覚と文体意識に裏打ちされた傑作である。これに限らず、こういった東欧文学の知られざる作品が、最近、若手の専門家による翻訳で、キノコが頭をもたげるように、次々と出始めている。どうか皆さん、心してご賞味あれ!(沼野充義さんによる『昼の家、夜の家』毎日新聞書評より)
どうしてこんなにも読ませる、そして読みたくなる書評が書けるのだろう!
映画『プライベート・ウォー』を観て 2019.9.29
寝てもうた…💤😪
評価は🤔🤔🤔…って感じ…
映画自体の評価ではなくて以下思ったことを書いてみたい。
真実が揺らぐ今、紛争地へ赴き、その悲惨さを伝える重要性は高まっている。そうした声は最近日本でも聞くようになった。おそらく近年のフェイクニュースに対する懸念と安田純平さんなどの邦人ジャーナリストに向けられた自己責任が社会で話題になったことによるものだろう。
確かに紛争地取材は「今、世界で何が起きているのか」を判断する材料を提供する意味でも必要だと思う。それでも今日の報道はマンネリ化されステレオタイプ化され現実そのものを陳腐化させてはいないだろうか。「反戦」や「平和」が抽象的なお題目にとどまってしまうことを憂う。
こうした現状を打開する方法は何か。生の実相、具体的な細部をこれまで以上にもっと伝えるべきだと思う。戦争以前の生活を過去に遡って知ることも必要だ。文学や歴史の役割はその点でより求められる。紛争が人々から何を奪い、破壊したのかを真に知るために。他者に対する共感を喚起するために。そして世界が解決への一歩を踏み出すために。
審美眼を磨くためには良い映画ばかり観ていてもいけないということか。
16歳グレタ・トゥーンベリ 国連気候行動サミットでの演説について 2019.9.25
私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです。
あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました。
それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。
なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。
あなた方は、私たちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。
だから私は、信じることを拒むのです。今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという、一般的な考え方があります。しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は50%しかありません。人間のコントロールを超えた、決して後戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。50%という数字は、あなた方にとっては受け入れられるものなのかもしれません。
しかし、この数字は、(気候変動が急激に進む転換点を意味する)「ティッピング・ポイント」や、変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠されたさらなる温暖化、そして公平性や「気候正義」という側面が含まれていません。この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で吸収することをあてにしているのです。私たちにとって、50%のリスクというのは決して受け入れられません。その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。
IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は67%とされています。
しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさかのぼって数えて、あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算になります。
今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。これまでと同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれるとか、よくそんなふりをすることができますね。今の放出のレベルのままでは、あと8年半たたないうちに許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。今日、これらの数値に沿った解決策や計画は全くありません。なぜなら、これらの数値はあなたたちにとってあまりにも受け入れがたく、そのことをありのままに伝えられるほど大人になっていないのです。
あなた方は私たちを裏切っています。しかし、若者たちはあなた方の裏切りに気付き始めています。未来の世代の目は、あなた方に向けられています。
もしあなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。「あなたたちを絶対に許さない」と。
私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません。世界は目を覚ましており、変化はやってきています。あなた方が好むと好まざるとにかかわらず。ありがとうございました。(NHK NEWS WEB 2019.9.24参照)
『砂の器』(1974)を観て。2019.9.24
これまで原作を映画化した作品を面白いと思ったことがない。本日、例外に巡り合えました。
<国鉄蒲田操車場で身元不明の撲殺死体が発見される。捜査は難航を極めるが、ベテラン今西刑事と若い吉村刑事の追跡により、ひとりの天才作曲家が捜査線上に浮かび上がる―。>(解説より)
午前十時の映画祭でやってるとのことなので観てきた。学生は500円。Huluでも観れるらしいけれど、やっぱ映画館じゃないと。でも思い立ったのが上映開始の1時間前。時間ギリギリで劇場に入る。見渡せば60代70代とかなり高齢な人たちばかり。しかもおばさんが多い。松本清張って女性ファン多かったか?なるほど加藤剛目当てか。たしかにあの人はカッコ良い。そんなこと考えながら席に着いた。
以下、感想
今まで観てきた映画の中で五本の指、いや1番かもしれない。それぐらい衝撃的な作品だった。映像だから伝えられる間合いや表情が緊迫した情景を描き出し、観る者の胸を打つ。特にラスト40分は構成の妙が光る。名脚本家の橋本忍だからこそなせる業か。「これだ!これこそが映画だ!」と思わせてくれた。
松本清張といえば社会派推理小説家として戦後社会の暗部を鋭く描いたことで知られている。だから読んでいても怖かったし、この世で一番恐ろしいのはやっぱり「人間」だということを教えられた。自分はこれまで怖いもの観たさに読んでいた面が強かった。でも社会の底辺(言葉が適切ではないかもしれない)にいる弱者の怒りや哀しみに光を当て、強い社会的メッセージを伴ったのが清張の作品ではないだろうか。清張の紹介でこのことは良く言われているけれど、今日の鑑賞で実感を持つことができた。 『砂の器』でいうと光を当てる対象が「病の父と子」だろう。この病が当時「らい病」と呼ばれたハンセン病のこと。高度経済成長に邁進し、日本が元気だった時代にあって、翻弄されて宿命を背負っていかなければならない人たちがいたことを忘れてはいけない。昭和ノスタルジーに浸る前に記憶しておかなければならないことがある。
ここでハンセン病のことについて。ハンセン病は1960年ごろには隔離は不要とされたのに、打ち切られたのは96年で40年近くが経過していた。このことはいかに差別や偏見が根強く残り続けるかを示している。もちろん今では隔離政策は行われていない。しかし、回復者たちとその家族の苦しみ・哀しみが解決したわけではない。時間が経っても影響を及ぼし続ける差別や偏見をなくしていくには今ある社会、そのありようを常に見つめ直していくことが欠かせない。そうすれば、自ずと今が過去の結果であることがわかる。『砂の器』は社会を見つめ直すことを観客に求める作品だと感じた。また、人道主義には暴力性が潜んでいることも指摘しておかなければならない。実際、ハンセン病も患者救済を謳って療養所が開設された。療養所の名前に「愛」や「楽」などの文字が使われていることからも分かるようにあまりに欺瞞に満ちた政策であった。慄然とする。旧優生保護法も同様であることは周知の通りである。人道主義が支配と抑圧に帰結する恐れがあるというのは心に留めておかなければならない。
岡山や香川にもハンセン病の療養所があり、最近では資料館の展示のみならず芸術祭も行われている。「ダークツーリズム」のような産業化した形で消費するのではなく、元患者たちの声に耳をすますために訪れたい。
水俣病患者たちの苦悩や希望を彼らになり代わったかのように書かれた作品に苦海浄土がある。薄っぺらな共感でなく告発文学でもない。松本清張と石牟礼道子の根底にあるものに似たようなものを感じる。文体も違えば人も全く違うのだけれど。
と、よくもまあこうダラダラと綴ってきたけれど、身構える重さの映画じゃないし、ぜひ観て欲しい。最後に空聞きしたおばさんたちの鑑賞後の感想で締めくくることにしよう。「やっぱり加藤さん、かっこ良かったわね。」やっぱり思った通りだった。
加藤剛さんを知ったのはある記事を読んだから。文から滲み出るヒューマニズムを感じた。下の記事は有料だから読めないかもしれないけれど、大学図書館や市立図書館なら読めると思う。次の午前十時の映画祭は『スティング』。録画したものを家で観たけれど今度は映画館で観よっかな。
結愛さんの虐待に涙し、子どもの泣き声に不寛容な社会:朝日新聞デジタル
夜になると肌寒い季節になってきた。そろそろ半パンとはおさらばかな。
音楽の秋、スポーツの秋、読書の秋、旅する秋そして卒論の秋?学生最後の秋、もっと楽しも